俳論広場

読みはどこまで自由か?
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第33回現代俳句評論賞 佳作
読みはどこまで自由か?
後藤 章

 2012年度の現代俳句協会評論賞は松下カロの「象を見にゆく」であった。この評論は俳句の読みについて興味深い見解を示していた。松下はこの評論で、いったん作者を離れた作品は、読者がテキスト内の字句を自由にいかように変換して解釈しても良く、その方が豊かな世界を生み出すことを、津沢マサ子の句を言語学的に読み取る試みで示そうとした。松下は津沢マサ子の句の世界にのみ通用する方法論としているようだが、そうではあっても読者の自由というものはどこまで許されるのだろうか、と筆者は考えざるを得なかった。そのことについて松下の論に従いながら考えてみる。

 はじめに松下の論の構成を簡単に記しておこう。

①つかみとして、サリンジャーの『テディ』を引き合いに出して、先入観を持つ事を忌避する主人公が教える子供たちに、松下は津沢の象の句を見せたいと書いて、津沢の句も読者の先入観を拒否していることを暗示する。

②「灰色の象のかたちを見にゆかん」という句を軸に、津沢の句の言語的特性を考えて行くことを示す。

③言語学的に、ソシュールのシニフィエ、シニフィアンの理論、加えてラカンのシニフィアン連鎖の考え方を駆使して、津沢俳句の読者としての自由を得る道筋を述べる。

④この自由な立場を他の芸術分野と比較して検証する。

 *マグリットの絵

⑤その他の西洋哲学者、人類学者の考えも引き合いに出して、読者の自由の拡大を確認する。

 *バルト、レヴィ=ストロース、フーコー。

⑥結論として「津沢が常に表意と完成を拒絶した場所から言葉を発している以上」「シニフィアン連鎖構造を閉ざされ」ているので、読者はこの句を自由に言葉を入れ替えて味わう自由と勇気を持つべきであると結ぶ。

 

 松下の論全体は戦略的には良い方向を見ていると思われるが、戦術的には非常に疑問が多い。俳句の読み方に新機軸を打ち立てるために、言語論を駆使するという戦略は首肯すべきところだ。しかし個々の戦術と武器については、基本的認識の間違いと、武器の扱いに不習熟だとしか思えない。

 基本的に認識の間違いと思われるのはラカンが創出した「シニフィアンの連鎖」(ラカンのエクリⅡでは「記号表現の連鎖」)の考え方についての理解である。この理解の仕方を中心に松下の論は組み立てられているので、ここでの無理が後半の暴力的な展開になってしまったと私は考える。

 具体的に松下の論に沿って検証するが、始めに筆者のソシュール及びラカン理解の概略を示しておく。

 ラカンの言う「シニフィアンの連鎖」というものは、シニフィアンの優位ということを前提に解釈しなければならない。

 ソシュールは、ある言語体系の中でのシーニュ(単語)のシニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)の関係は最初恣意的な選択だったものが、社会的、文化的、歴史的な力でシニフィアンとシニフィエの組み合わせが完成し垂直的だとした。その上でシーニュの価値(意味)は隣接するシーニュ(単語)との関係で、これも社会的、文化的、歴史的力の中で決定されるとしたのである(注1)。英語のsenseが「感覚」と「意味」という二つの語義を持つことが意味深いといったのは池上嘉彦(記号論への招待・岩波新書)だが、まさにシニフィアンは形や音などの「感覚=sense」で受け止めるもので、同時にそこにはシニフィエとしての「意味=sense」が備わる現象を言葉として見せている。そうしてその価値(意味)が「感覚」なのか「意味」なのかは sense が使われている文脈や状況によるのである。ソシュールはそのように言葉というものを考えた。

 一方、ラカンはシニフィアンの優位を考えた(注2)。一つの言葉のシニフィエは、シニフィアンこそが先導して決定すると理解していた。一連の言葉の流れ、関係の中でシニフィアン同士が他のシニフィアンとの差異を示すことによってそのシニフィエが決定されると言っている。前後に来るシニフィアンの差異によって、当該のシニフィアンが帯びるシニフィエは変わってくるのである。ソシュールとの違いはここにある。ソシュールはシニフィエとシニフィアンがいわば垂直的に一体であるが、ラカンはシニフィエの決定に当たってはシニフィアンが優位に立って決定し横滑り的であるとしたのである。言葉遊びや比喩が認識されるのはこの機能があるからである。たとえば、私が今日、電車内で見たある新聞の宣伝に、「500字に今日を刻む」という一文があった。これは普通の日本人が普通に読んで、500字というコラムにその新聞は世界の今日の状況を活写してますよ、だから読んでくださいというメッセージであることは分る。では何故分るのだろうか。文字通りに理解して500個の活字自体に「今日起きていること」を鑿とか使って刻むことは不可能で、馬鹿げたことでそのように解釈する人はいない。しかし日本語を習い始めたばかりの人ならば、そう書かれていると考えて、「おかしな文章だ」と思うかもしれない。それはその人の中で、日本語や日本社会のコードが十分に発達していないからである。しかしコードが出来ていたとしても、刻むということが比喩であることを了解されないと分らない。この比喩(喚喩と隠喩)という言語の機能をうまく説明してくれたのがラカンなのだ。それはシニフィアンの優位から導かれる「シニフィアンの連鎖」の効果であるとしたのである。ソシュールがシニフィエとシニフィアンを含んだシーニュが意味を決定するのは隣接するシーニュ同士関係で決まるとしたのに対して、ラカンは価値(意味)の決定に際してはシーニュの中のシニフィアンの動きに注目したのである。このラカンの見方が正しいかどうかは議論の分かれるところであるが、大事なことは「シニフィアンの連鎖」とは言語の現象を示す言葉ということである。シニフィエにしろシニフィアンにせよ言語の生態を説明するために用意された言葉であって、言語による創作活動のための道具ではないということである。

 では松下の評論を彼女の章立てにそって見てゆこう。

 

1 「象というシニフィアン」

 松下は、ソシュールの<「言語が現れないうちは何一つ分明なものはない」(ソシュール『一般言語学講義』)。>(注3という言葉を引用して、シニフィアンとシニフィエの関係に簡潔に触れている。次に述べるラカンの前触れとしてである。だがこの引用において、ソシュールの原文の前段にある「予定観念などというものはなく,」(ソシュール『一般言語学講義』・小林英夫訳・岩波書店)という文章を外して引用している(注4。ソシュールやラカンの言語観の理解には実はこの前提が大事なのである。この前段の文章の意味するところは、言葉の価値(意味)は関係性の上にのみ現出するということである。言語というシステムは記号の関係性であり、それは歴史的、社会的制限のなかでその言語システムの中にいる個人の脳の中に常に発生しているものである。松下の記号論の認識において薄弱なのはこの関係性の概念である。松下は一語のシニフィアンとシニフィエの関係の視点からのみ言語を捉えて、このシーニュ間の関係性についてあまり重要視していない節が見える。ここでこの関係性に言及していないということはそれこそソシュール記号論の基本が「分明」になっていないのである。ソシュールがその研究から抱いたものは、西洋近代合理主義への懐疑である。西洋社会では神がすべてをすでに作り上げているという聖書の世界観から、人間の外部に客観的世界が存在しており、人間が発見してゆくだけだとの考えがある。諸概念はすでにあるのである。ところがソシュールはそれが無いと宣言したのである。言葉は既存のものに名づける行為ではないとソシュールは言ったのである。言葉は星雲に区切りを入れて星座を示すように形作られるとは、思想家内田樹のソシュール理解の言葉だが分かりやすい。思考の塊を星雲とソシュールも言ったが、それが価値(意味)を持つのは星と星との関係のなかで可能なのである。星座というコードを知っているものには星雲上の星をつなぐことによってはじめて白鳥座が見えてきて、その意味するところも自動的に了解する。最初から事物=白鳥座が空にあるわけではない。それがシニフィアンとシニフィエの関係である、同時にシーニュ同士の関係である。先走るが星雲をフロイトの無意識と考えてもいい。そここそラカンの注目した点である。

 松下がこの前段の文章を無意識にしろ外したのは、彼女の立つ位置がそうさせたのである。つまり近代合理主義の立場である。確たる知に基づいて確たる存在物を理解、命名するという方法論から抜け出せないで居る。構造主義の武器を使いながら、その根本の精神を理解していないのでこのような引用になった。絶対的な知の体系の中で考える姿勢なので、相対的、関係性から言語を見ることが出来ないのであろう。以下に示す松下の文章はこの間違いを端的に表している。

 <語り手が発声した音標「ZOU」は、聞き手の聴覚を経て内的視覚に訴え、「象」の概念を現出させる。ここで初めて「象」は「分明なもの」となる。ソシュールの主張は「記号としての言葉」が思考と音の接点に生れ、意味を帯び、表象に至る言語体系の先端部分を解き明かす。>

 音標「ZOU]が「象」の概念を現出させるというところまではまあいいとしよう、しかし次にすぐ「象」の価値(意味)が「分明なもの」となるとするところに、松下の理解不足がある。言語がシステムとしての関係性であるとソシュールが指摘した視点をまったく無視しているのである。価値(意味)は文脈の中でこそ決まるのである。

 さて次に、松下はラカンのエクリⅡからある文を引用して、津沢の象の句の解剖に乗り出す。だがラカンの文章が分かりにくいとしてまず平井照敏の句を置いて、その引用文が示すところのラカンの考えた「シニフィアンの連鎖」を説明している。この引用のしかたにも根本的な問題が横たわっているが、それは後述する。まず松下の解説を見てみよう。なお引用文に施した記号①、②の挿入は筆者である。

<象の鼻冬の光を拾いおり  平井照敏

冬晴れの動物園。鼻の先を器用に使って餌を拾い口元へ運ぶ象。素朴な飲食。象は地面に差す淡い陽光を習慣的な動作でなぞっているのか、それとも、ひとかたまりの餌が「冬の光」と捉えられているのだろうか。いずれにしてもその仕草は「光を拾う」と表現されて過不足が無い。>

<「象」のシニフィアンは生きるための愚直な行為や、一句一句を「拾うように」詠む作者自身の姿が投影された静謐な「命」のシニフィエを生む。ここで「ZOU]という音標(シニフィアン)は、「象の形象」を含みつつも、それを飛び越え、より広域な「命」を創意(シンボライズ)していると言える。>

 この松下の文章を理解するために二つに区分する。前段は平井の象の句から<・・・過不足が無い。>のところまでとする。

 この前段ので、松下は平井の句を忠実に季語のコードにのっとりながら解釈している。冬晴れの動物園で象が鼻を揺らしながら餌を食べていると。ところがに入って松下は<ひとかたまりの餌が「冬の光」と捉えられているのだろうか >と餌を「冬の光」と平井が考えたのではないかという解釈を示す。まさにこの解釈は正解だが、この解釈(隠喩)を生んだ飛躍こそが「シニフィアンの連鎖」による効果なのである。それは先ずZOUというシニフィアンとHANAという「シニフィアンの連鎖」を、つまり何の意味も持たない音だけの、音素だけで連鎖して、その結果シニフィエとしてあの長い鼻を持った大きな動物が候補にあがってくる。引き続き同様の手続きでHUYUとHIKARIとも連鎖してゆく。最後にはこの句全体のシニフィアンが互いに連鎖して、長い鼻を持った大きな動物(ここでは象)が拾うHUYU NO HIKARIという音素間の「シニフィアンの連鎖」をESAという音素のシニフィエ(餌という概念)に逢着して、この句の鑑賞にいたっているのである。この現象=効果がラカンの言う隠喩そのものである。ラカンのエクリⅡに出てくる、例の「彼の麦束」(注5がまさに「冬の光」なのであって「ボアズ」が「餌」なのである。まさに「シニフィアンの連鎖」が起きて隠喩が成り立っている。この句の眼目である「餌」を「冬の光」に見立てたところを、松下は完璧に把握している。しかし、「シニフィアンの連鎖」はここまでである。平井の創作意図に対して<いずれにしてもその仕草は「光を拾う」と表現されて過不足が無い。>とその隠喩に松下は賛意を示している。この賛意こそ読者に許された「シニフィアンの連鎖」によるシニフィエの固定の限界である。

 しかし松下はここから急に一句全体の問題ではなく、一句内の言葉である「象」にのみ固執して後段の文章を続ける。(この転換ができるのは、言語は関係性であるという重大な観点を欠落しているからであるが、それとも意識的なのだろうか?) ここで松下はシーニュ「象」のシニフィアン(ZOU)は「命」のシニフィエを生むといい放つ。何度も言うがラカンの場合、シーニュ(この場合は「象」)のシニフィエはその語に続くシニフィアンとの関係(連鎖)でシニフィエを決定するのである。だから「象」だけで決定するのは無理なのである。それでは星雲の上を漂流し続けるシニフィアンになってしまうのである。可能なのはソシュールの定義するシニフィアンとシニフィエの関係に戻って、日本語のコードに従った、鼻の長く大きな動物といったシニフィエ(概念)を得ることのみである。だが松下は「命」のシニフィエを生むというのである(この「命」の表記がシニフィアンを示すのかどうか曖昧だ。もしそうだとすればINOTIではないのか。ZOUのように)。

 松下は二重に勘違いを起こしている。一つは、松下は平井の句全体から得た感銘を「命」を表現すると受け取ったはずなのであって、「象」という一語のシニフィエとして受け取っていたわけではない点である。「オッペルと象」の「大衆」も「象は忘れない」の「悪意(注6」も童話や小説というコンテクスト全体から読者が得た感銘であって、象という一単語の問題ではないのである。

 二つ目は少なくともラカンの考えに沿うならば、言い換えれば、「シニフィアンの連鎖」の効果を主張するのであれば、「象」一語に収斂した解釈はありえない点である。ラカンやソシュールは、基本的に言語がどのような仕組みで伝わるのかを考え、言語の生態を研究したのである。だから「シニフィアンの連鎖」とは、ラカンが観察した言語の生態の一環なのだ。思うに、松下は「シニフィアンの連鎖」を読者の解釈の手段ひいては創作の道具、武器と考えてしまったのだ。ここに勘違いが生まれた原因がある。観察と創作は違うのである。

 ラカンが言わんとしたことは、次のような句でも人間は解釈ができて、意味が生まれるのはなぜかということである。松下がしたように実例でしめすならば、

   象憎悪夏の霰を火星より  (筆者が勝手に作った句)

 この句を読んでも人は何かを感じてくるはずである。感じようとするのである。これは閉じた記号体系の言語(プログラム言語)ではなく、人間が使う言語であるからだ。シニフィアンとシニフィエがきっちり対応している記号体系ではなく、そこに主体たる人間がそしてその社会と歴史が介在する記号体系であるからこのような現象が起こる。この生成の謎をラカンやソシュールは解明しようとした。

 この筆者の作った句を、象の凶暴性の象徴と読む人がいるかもしれない。それでいいのである。そこに詩が生まれるといっているのである。精神分析の臨床からラカンは考えたのである。患者らが吐くでたらめな言葉でも意味が見えてくることを、その言語構造を。その謎を、ラカンは「シニフィアンの連鎖」の効果であるとしたのである。言うまでも無いがこれはフロイトの見つけた無意識の世界と連関した話である。ラカンは「無意識は、ひとつのランガージュとして構造化されている」といっている。言語構造化されているからシニフィエが定位するのである。

 松下は「シニフィアンの連鎖」をよく理解してないで使用していると思われる。彼女の言葉の<詩的なシニフィアンの連合体>などというものは、ラカンの考え方やソシュールの言語論ではありえないのである。シニフィアンは音素という概念的な記号の一面でしかないのである。詩的もくそもないのである。 ラカンの場合、物質的な要素を加えている点がソシュールと異なっているが、「詩的」などという概念をシニフィアンにつけることはありえないのである。

 ところで、松下は<詩や散文の文脈中、シニフィアンは他のシニフィアンと如何に関わるかによってシニフィエを決定される。>(「現代俳句」H24年10月号・P16上段10行目)と書いていることからみて、ラカンの「シニフィアンの連鎖」について一部理解しているとは思われる。だが津沢の句の分析を始めるとこの理解はどこかへ消えてしまうのである。松下は津沢の句の構造がそうさせるのだといいたいのであろうが、それは無理なのだ。何度も言うが「シニフィアンの連鎖」は言語の生態を表した言葉なのだ。松下は恐らく「シニフィアンの連鎖」を道具で使おうとしている自分に気づいていないのである。たとえてみれば、遺伝子がよく見える顕微鏡で観察しているうちに、その性能があまりにもいいので、遺伝子の組み換え手術が顕微鏡で出来ると勘違いしてしまったようなものだろう。顕微鏡は観察するだけである。

 さあ松下の「象」を見にゆこう。

 

2 「象という無為」

  灰色の象のかたちを見にゆかん 津沢マサ子

 ここで松下は<ここに象はいないのだ。我々はこれから象を見にゆくのだから>と書いて、順当にこの句のメッセージを言葉どおりに受け止めている。各言葉の日本語におけるシニフィアンとシニフィアンが連鎖してシニフィエを決定させたから、このように解釈できたわけだ。だがつぎに松下は <津沢は「象の概念(シニフィエ)」の造型を行わない。句内に「象」を基点とする「シニフィアンの連鎖」を起こそうとしないのである>(「現代俳句」H24年10月号P16下段6行目)と書くのである。もし津沢が松下の言うようにシニフィエの造型を行わないような言葉の魔術を掛けられるなら、なぜ松下は「象はいないのだ。われわれはこれから象を身にゆくのだから」と読みえて理解できるのだろうか?松下だけが魔術に掛からないのだろうか?松下に言わせれば、津沢は「表意と完成を拒絶」(「現代俳句」H24年10月号P24下段4行目)しているのだから松下や読者はこの句が分らないはずである。百歩譲って松下がこの句を読んで「象を見に行こう」としか感じないとして<「シニフィアンの連鎖」を起こそうとしないのである>と書いているなら、それこそ松下の感受性の無さを示しているか、意図的としか感じられないことになる。なぜなら普通の読み手ならば「灰色の象」の意味ずるところ、隠喩を考えるはずであるからだ。「象」を「権力」の隠喩と思う人もいるかもしれない。あるいは囚われていても澄んだ眼を持つ政治犯を思う人がいるかもしれない。これがシーニュの持つ概念の複層性、多義性の自由や他のシーニュとの関係性から来る「シニフィアンの連鎖」の効果である。しかし原句のコンテクストに対して読者が許される「シニフィアンの連鎖」はここまでである。それを陳腐と見るかどうかが読者の力量にかかっているのである。いずれにせよ連鎖は生じるのだ。

 ところで基本的なことを確認しておきたい。津沢の灰色の象の句は、彼女の処女句集「楕円の昼」の巻頭の一句で、表記としては

  灰色の象のかたちを見にゆかむ

となっている(注7)。最後が「む」で終わっている。松下はこの評論では

  灰色の象のかたちを見にゆかん

としている。これは「津沢マサ子俳句集成」(深夜叢書社・2006年)からの引用なのだろう。津沢自身が表記を「ん」に、あるときから変えたのである。自筆年賦によれば平成17年(2005年)の7月13日に現代俳句協会の「日英対訳現代俳句」に「灰色の象のかたちを見にゆかん」を他の4句とともに送ったとある(注8)。古語の場合「む」でも「ん」でも表記としては存在したのであるから変更しないでもよいものだが、なぜか津沢は変更した。松下はこの「ん」に関して次のように書く。

<最後の「ん」は古語の助動詞「む」の終止形だが、ここでは意志と勧誘の両義が有効であろう。>

 つまり、「ん」」は古語の助動詞「む」の終止形だというのだ。しかし津沢の意思は現代仮名遣いとしての「ん」だったのではないだろうか。

 現代仮名遣いでもこの「ん」は使用されている。

 

 

 現代仮名遣いで「見にゆかむ」というのは消えたが、「見にゆかん」はある。津沢は「俳壇」2001年・7月号で<競詠 私の表現上の立場 口語を使うということ  「ゆめ」のフォルム」>と題して次のように書いている。

 <私は、伝統の美しい息遣いを持つ俳句形式に、現代という掛け替えのない時代の風を浴びせ、いまこの時でなければ書けない新しい表現に辿りつきたい。そんな思いが、時に。これが私の表現上の立場であろうか。>(傍点は原文のまま)

 津沢の意思は2001年つまり平成13年時点で口語への意思をはっきり持っていた。その考えで平成17年には「日英対訳現代俳句」に「灰色の象のかたちを見にゆかん」を送り、平成18年の「津沢マサ子俳句集成」には、口語の現代仮名遣いの「ん」としてこの句を収めたと見るべきであろう。

 さらに、松下はこの句の主語を、「私」かあるいは「われわれ」と見て、<意志と勧誘の両義が有効>といっている。だが読みはそれだけだろうか、この「む」あるいは「ん」を、第三者の推量の「ん」あるいは「む」と読むことも可能なのである。つまり{群れるものたち(第三者)はこぞって象(権力者)を見にゆくだろう、だが私はいかない}と。ロンリーウルフを自称する津沢に寄り添ってみれば、哀れに群れるものたちは「灰色の象(権力者)のかたち」を嬉々としてみにゆくことだろうよ、と読めるはずだ。この読みは、津沢という人間を知っていて一句独立の鑑賞の場合は成り立つ可能性があるが、句集の冒頭におかれた場合は難しいかもしれない。ことほどさように、どこまでのコンテクストをこの句の読みに許すのか、津沢マサ子という名前だけか、彼女のエッセイ「0への伝言」を読んだことまで含めて鑑賞するのかで、「シニフィアンの連鎖」は影響されるのである。しかしそれでこそ読みの多様性は現れるのである。だがこれも言語の自律的生態であることを忘れてはいけない。津沢自身があるいは松下が意識的に「シニフィアンの連鎖」を起こしたり起こさなかったり出来ることではない。起きてしまうのだ。

 松下は津沢の「象」が如何に違うかを述べるために、宇多喜代子の句を引用している。

  八月の窓辺に象の微笑かな  宇多喜代子

 松下はこの「象」は小説家の中上健次を指すと断定している。(「現代俳句」H24年10月号p17・上段14行目)宇多が「悼中上健次」と詞書をつけているからと書いているが、このコンテクストの広がりや、読者が、中上の開いていた熊野大学の宇多が主要なメンバーだったことを知っているならば、この句を読んですぐに、この「象」は中上の隠喩だと分るはずである。松下はこの「悼中上健次」をはずしたならば、それでもそこには宇多の「象」が「八月・窓辺・微笑」のシニフィアンと照射しあうことで<宇多自身の象の特性を顕す>と書く。松下は「シニフィアンの連鎖」をここでは正しく認識している。だが、ここで松下は津沢の句にもう一度戻って、津沢の「象」は無欲で無為なので<ZOUというシニフィアンに留まったまま、他のシニフィアンとは響きあわない>で「象」でもキリンでも豹でも白鳥でもありえたという。なぜカッコつき「象」なのかも不明だが、キリン、豹と書いてKIRIN、HYOUと書いていない以上シニフィアン(音素)でないことは明らかで、ということはシニフィエを表しているのだろう。なぜZOUというシニフィアンがKIRINというシニフィアンではなく、キリンというシニフィエに行ってしまえるのか。このへんも松下の勝手な操作としかいいようがないが、それは置いておくとしても、<この不思議な「象」は、読む者を、象を見たこともなかった幼年時代、さらに、事物が名前を持たなかった原初の頃>に連れ戻すようであるという。松下に聞きたい、それは誰が連れ戻してくれるのだろう。そこに連れ戻してくれる作用は言葉がしてくれるのではないのか。それこそ「シニフィアンの連鎖」なのではないのか。つれ戻すエネルギーを生んでいるものは何か。ソシュールもラカンも、この言葉の不思議な能力を如何に科学的考察の対象とするかで苦闘したのである。その苦悩の果てに構造主義という近代科学の方法論を克服するような哲学を生み出す基礎を作り上げたのである。

 松下は<事物が名前を持たなかった原初の頃>と書いているが、この文章が示す松下の考えは、事前に事物は存在していてそれに名前をつけて行く、という考え方だ。それこそキリスト教を背景にした西洋近代合理主義の考え方である。ソシュールやラカンは言葉の科学的探究の果てにその考えを否定したのである。<名づけられることによって、はじめてものはその意味を確定するのであって、命名される前の「名前を持たないもの」は実在しない、ソシュールはそう考えました。>(内田樹「寝ながら学べる構造主義」)ということである。実在しないのである。原初の頃に、名前を持たない事物は、実存しないのである。少なくともソシュール、ラカンを武器に語ろうとするならば、この基本的事項を把握しておかねばならないはずだ。 論文冒頭のソシュールの言葉<言語が表れないうちは何一つ分明なものはない>はこのように理解されなければならない。松下の考え方は明らかに、事物は無名のままで存在し、人間に名づけられるのを待っているという近代合理主義のものだ。

 

3 「象という記号」 

 さて評論の「Ⅲ 象という記号」 に到って松下は宣言するように次のように書く。

<ところが、意味の裏付けを持たない津沢の象は、却って無数のシニフィエに姿を変えることができるようになる。>

 この文章の構造を図示すれば

となる。その方法は<作品中のシニフィアンとシニフィアンを関係付けようとする試行を諦めてしまいさえすれば>できるという。そうすれば<我々は「象」に存するコンセプトとイマージュを数限りなく発掘することができるのだ。無為の象は、読者に、読者自身のマインドに沈んでいる「象」と合致するシニフィアンを探し当てることを強く要請する。>のだそうだ。

 これは、津沢の句の読者が津沢の句における「シニフィアンの連鎖」をやめれば、読者は津沢の句の「象」を、自分の心の中に浮かぶシニフィアンと<合致>させて解釈するようになるといっているのだ。<例えば、演奏家である読者が、「ヴァイオリン」というシニフィアンを「象」に連鎖させるならば、象は忽ちモーツアルトに姿を変え、そこには「至福」のシニフィエが生まれるであろう。>というものだ。おそらく松下は津沢の句はそのような仕掛けになっているといいたいのであろうが、<作品中のシニフィアンとシニフィアンを関係付けようとする試行を諦めてしまいさえすれば>と書いて、その仕掛けは条件付であることを明示している。読者が「シニフィアンの連鎖」を意識的にあきらめることを前提にしてしまっている。その上で、前段で<シニフィアンとシニフィアンを関係付けようとする試行を諦めて>といいながら後段では<「ヴァイオリン」というシニフィアンを「象」に連鎖させる>といって連鎖させてしまうのである。松下は読者に対して津沢の句では”「シニフィアンの連鎖」を諦めてくれ、だが自分の心の中では大いに「シニフィアンの連鎖」をしてくれ”といっているのである。このような自由を読者は望んでいるのだろうか。そこに読みの楽しさは存在するのだろうか。それより前に、このような複雑な読みを読者に強制することを津沢は望んでいるのだろうか。さらに、【演奏家→ ヴァイオリン→モーツァルト】という「シニフィアンの連鎖」と松下はいうがこの連鎖の背景にシニフィエの影があることは間違いがない。ラカンの場合これはありえない。シニフィアンは音素でしかないのである。あるのはシニフィアンどうしの差異だけだ。

 松下は象にばかり拘るが「灰色」はどうしたのだろうか「かたちは」どうしたのだろうか。もし松下の言うように、象とバイオリンのシニフィアンからモーツァルトのシニフィアンにいたり「至福」というシニフィエを得たとき、「灰色の至福」というまことに詩的な至福になってしまう。さらにこの句の眼目「かたち」はどこにいってしまったのだろうか。それでも読者の読みは自由で至福だろうか。

 だが松下はこれを読者の読み方の自由であると論をつなげていくのであるが、もう具体的な反証はこれぐらいにしよう。ただ津沢の句はこのような構造になっているものが多いと例句を10句挙げて、<これらの句々は「書き手が定型の構図の中で、シニフィアン同士を関係させ、シニフィエに結実させて読み手に開示すること」を作品に求める規範においては、形式として未熟であり、未完である。>と述べる。これは津沢の句は普通の読みかたでは未熟に見えるが、「シニフィアンの連鎖」をしなければまったく違う読み方が出来るよといっているのである。何度も言うが「シニフィアンの連鎖」は人間のものではないのである、言語のものなのだ。ラカンが言語の生態を観察して発見した言語の生態なのだ。する、しないの問題ではないのである。この「シニフィアンの連鎖」にしろソシュールのシニフィアン、シニフィエにしろ、これらは、言葉が何故伝わるのかを究明するうちに発見した現象であって、作品を変更して読者が自由に解釈するための道具ではないのである。これは人類に対する偉大な発見であって、それを道具化する権利は誰にも与えられてはいないし不遜でさえある。 

 

4「象・林檎・城」

 結局のところ松下は、少なくとも津沢の句では、読者の読みが作者の意図を無視しても良いという基本姿勢である。それを補完する上でこんどは画家のマグリットを持ってくる。絵画と言語の違いは時間性にあることを忘れて論じている。つまり俳句であっても言葉は読み下す時間が必要である。山本健吉が「時間性の抹殺」といったとて、この時間は絶対なのだ。この時間によって「シニフィアンの連鎖」現象は起きるのである。一方、絵は一瞬にして全体の印象を得られる。この違いも乗り越えて松下はシュルリアリスム絵画と津沢の句は同じ構造を持っているという。つまり津沢の句の場合は「象」が「きりん」や「豹」や「モーツァルト」に異化してゆき、マグリットの絵の林檎は巨大化して手に乗る林檎ではなくなるのというのである。だが、林檎は林檎なのである、絵画の場合最後まで林檎なのである。題で「これは林檎ではないCeci・・・」とか「聴取室」といっておいて、大きくなっただけなのである。だが松下によれば津沢の場合、句内の言葉は変異する。「象」が「豹」に「キリン」に。この絵画と言葉の違いを松下は説明していない。本来の「シニフィアンの連鎖」はコンテクストのなかの言葉から始まり、シニフィエを一句の関係性の中で規定してゆくので言葉自体が変異することはない。しかしその連鎖の果ての変異体である隠喩はまさに言葉の後ろにいるのである。マグリットの場合は絵と題の捩れだけである。 

 マグリット作「聴取室」

 カフカの「城」も引き合いに出しているが、これはまさに「シニフィアンの連鎖」の効果の上に成り立ち、隠喩の不気味さが際立つ作品であるが、城が見えないのであって城がキリンには変異していない。<林檎と城と象。三者は明晰な事物でありつつ>と松下は書くが果たして「事物」なのだろうか、シニフィアンであったのではなかろうか。

 

5 「象となる岩」


「ピレネーの城」

 こんどは同じマグリットの「ピレネーの城」を持ち出した。恐らくこれは、先に指摘した林檎がただ大きくなっても、林檎であることには変わりない事を踏まえての処置だろう。この絵はたしかに岩だが題名は「城」なのだ。変異してるとして松下は<マグリットにおいて岩が城に変容するのであれば、津沢マサ子における岩は何者に変わり得るのだろうか。>と書いてついに象を岩に変えてしまう。

 灰色ののかたちを見にゆかむ(岩のゴチック体への変異は筆者)

  だが、ここからまた繰り返し松下がこの評論で述べてきた手順を経て、岩は様々なものに変遷して果てしない漂流に陥る可能性があることをどう考えればいいのだろう。これは「林檎」の逆でしかないのだ。これで果たして鑑賞が成り立つのであろうか。それを松下はシュルリアリスムというのであるが、それならば次の句をどう読むであろうか。

  雪の原豚にからすのとまり居り

 この句は如何様にでも読める。マグリットのように豚と鴉を最大限大きくイメージしてもいい。豚の死体でもいい。ダリの絵をイメージして読むことも可能だ。これはこの句のテキスト内だけの言葉の「シニフィアンの連鎖」で、如何様にでもシニフィエを決定して読者は鑑賞してよい。それでもかなりシュールに感じることを可能にする力がこの句にはある。

  だが、これに作者とこの句が載っている書物というコンテクストの範囲を広げてみると、皆さんはどう解釈するだろう。これはホトトギス雑詠選集冬の部にある三重子という人の句である。そう知って、急にこの句のイメージが中景に見えて来た方はいないだろうか。徹底した写生句として読めという「ホトトギス」のコードがそうさせるかもしれないのだ。だから面白いのである。象を岩に変えてもキリンにまたなるだけである。この句をそのまま読んだほうがよっぽどシュールになる。

 

6 「互換する象」

 松下は恐らく同様の気持ちを解決するために今度はバルトを持ち出した。同様の気持ちとは象を岩に変えても次にはキリンになるだけではないかという恐れである。テキストを勝手に変容して鑑賞する自由の保証を何とかして得たいのである。そこで引用したのが次のバルトの言葉である。

 <「テクストとは、一列に並んだ語から成り立ち、唯一のいわば神学的な意味(つまり作者=神のメッセージ)を出現させるものではない。テクストとは多次元の空間であって、そこでは様々な『書かれた言葉』が、結び付き、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である。・・・しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは作者ではなく読者である。読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。」(バルト『物語の構造分析』>

 このバルトの言葉を松下は、レビィ=ストロースやミシェル・フーコー等の構造主義的論理に基づいていると言明している。この理解は正しい。しかし松下自身の次の言葉は構造主義を全く理解していないことを示している。

 <自我に縛られることから脱し、偶然を含む大きな意識を個に取り込もうとする思考潮流を汲む言語感覚に基づいている。殊にバルトが強調するのは、このテーゼが作品に行使される際、「テクストの多元性の収斂」は読者という受容体内部に興るという点である。>

 バルトが言っているのはまるで逆である。一人の人間の言語は文化の中に囚われていると言っているのである。それを読者に収斂すると言っているのである。また<神学的な意味(つまり作者=神のメッセージ)を出現させるものではない>と言っている点でも誤解されているようで、これは先にも書いたが、西洋の一神教の論理に基づく、神の決めた摂理に言葉を与えるという思想をバルトは否定しているのである。それを松下は<偶然を含む大きな意識>をと書いて神にも似た、自然にも似た大いなるものを想定してそれを取り込む言語意識だというのである。これほど間違った構造主義の理解はない。バルトは星雲(=無数にある文化)のような空間に星座(=織物)が生まれるのは(=収斂するのは)読者であるといっているのだ。「収斂」するのである。だが松下はここでも<このテーゼが作品に行使される>と書いて、「シニフィアンの連鎖」を「行使」する道具として使おうとする。

 松下がこのように理解してしまったのは何故なのだろうか。その理由が垣間見えるのがはじめに戻るが、ラカンの文章の引用の仕方に見えている。

 松下はラカンのエクリⅡから次のように引用した。

 <記号表現のひとつひとつの単位(シニフィアン)は、この単位から発して相互の浸蝕や増大する合一を描き出そうとするのです。・・・記号表現の連鎖のこうした構造が知らせてくれるのは、私がまさしくある言語を他の人々と共有する範囲内で、言い換えると、この言語が現に存在する範囲内で、言語が言うものとはまったく別のものを意味するために、私がこの言語を使うことによって持っているこの可能性です>(「現代俳句」H24年10月号・P15下段4行目から11行目)

 この文章は佐々木孝次訳のエクリⅡ(弘文堂)から引用している。だがこの引用がかなり問題なのだ。

 第一に松下論文の原文にある引用部分の「描き出そうとするのです。」と言うところは、佐々木の訳文では次のように書いてある。

 <記号表現のひとつひとつの単位(シニフィアン)は、この単位から発して相互の浸蝕や増大する合一を描き出そうとするのですが、結局は、最後の示唆的な諸要素に還元されることと、閉じた秩序の諸法則に従って単位を構成していくことの二重の条件に従っている、というものです。

 この諸要素とは言語学の決定的な発見で、つまり、音素のことですが、・・・略>(イタリック、傍線筆者)(注9)

 つまり松下が<・・・です。>と句点で止めているところは、佐々木の訳文では「・・・ですが、」という接続助詞+読点で続くのである。そのように改変しておいて、松下は<・・・記号表現の連鎖のこうした構造>と続けていくのだが、この<・・・>にはなんと佐々木の訳文で一行52字の77行が省かれているのである。省かれた場所に書かれているのは、ラカンが言葉の中に観察した「シニフィアンの連鎖」についての具体的例で、その解説である。これを読まずに直ちに<記号表現の連鎖のこうした構造が知らせてくれるのは、私がまさしくある言語を他の人々と共有する範囲内で、言い換えると、この言語が現に存在する範囲内で、言語が言うものとはまったく別のものを意味するために、私がこの言語を使うことによって持っているこの可能性です>を読めば、読者が自由に「シニフィアンの連鎖」を使ってコンテクストを解釈できると読みえてしまう。特に< 言語が言うものとはまったく別のものを意味するために>が松下にとっては肝要のところであったのである。

 だがラカンは、「・・・ですが、」と続けて、シニフィアンが連鎖しても、<結局は、最後の示唆的な諸要素に還元されることと、閉じた秩序の諸法則に従って単位を構成していくことの二重の条件に従っている、>といいたいのである。つまりこれは、漂うシニフィアンが<結局は、最後の示唆的な諸要素>=<言語学の決定的な発見で、つまり、音素のこと>=シニフィアンに還元されて、<閉じた秩序の諸法則に従って>、つまり各言語の持つコードの関係性の中でシニフィエが決まるということを言っているのである。< 言語が言うものとはまったく別のものを意味するために>とは、隠喩、換愈が成立する経緯を言っているのである。これは言語の生態を観察した報告なのである。決して操作技術ではない。その証拠にラカンの言葉に<この諸要素とは言語学の決定的な発見で>とか<こうした構造が知らせてくれるのは>という表現があることである。まさに観察しているから<知らせてくれる>のである。お分かりであろう、松下は「読者の自由」=語の入れ替えの自由を得るために、都合よくラカンを利用できるように原文を改変して引用してしまったのである。その意味で松下の<言葉に無尽の意味を与えるための逆説的なスキルとして、津沢は言葉からシニフィエを奪う。>(「現代俳句」H24年10月号24p上段14行目)という記述は、スキル=技術として「シニフィアンの連鎖」を理解していたことをあからさまに示している。

 松下はこの章の最後になって<こうした鑑賞は一句の完成度の重視という点からは乖離したものであるかもしれないが>と書いて、論の瑕疵を十分に意識しているようであるが、その不安を津沢に転嫁するような言説を次ぎに披露する。

 <津沢が常に表意と完成を拒絶した場所から言葉を発している以上、・・・略>(「現代俳句」H24年10月号24p下段4行目) 

 この言葉は果たして津沢自身から出た言葉なのであろうか、引用文ならこんな大事な言葉の典拠を示さないのは読者を惑わせる。津沢がまさにそういったのであるならばそれは最初に典拠を示されるべき言葉だ。この評論のコンテクストを構成する大事な言葉であるからだ。津沢の著書である『0への伝言』等を読んでみても、そのような津沢の言葉に筆者は出会わなかった。逆に発見できるのは一句の完成への見事な執着である。たとえば『0への伝言』の中で、師である高柳重信のことば<常に一回かぎりの完璧な表現を指向する言葉の意志に逆らってまで、安易に季語を投入したり、強引に五七五の形を整えるようなことは絶対に許されないのである。>を引用して津沢は次のように書いている。

 <これらの言葉(高柳の言葉を指す)の発するメッセージを読みとることでわが俳句形式への戒めとする。・・・略>(カッコ内筆者)

 つまり津沢は一句の完成を誰よりも願っていたのである。だからこそ孤高を貫いている。その津沢が<表意と完成を拒絶>した句作りをするだろうか。私にはそう思えない。

 

7.結論として

 松下は結局のところ「意味」を執拗に求めたのである。構造主義の武器を使いながら構造主義が否定した「意味」を過剰に求めたのである。それは西欧近代合理主義の考えでシニフィエ優位の言語思想である。ところが用意した武器は扱いに不習熟なシニフィアン優位による「シニフィアンの連鎖」であった。この基本的矛盾が、松下を誤解に導き言語の生態である「シニフィアンの連鎖」を言語を操る道具としてしまったのである。松下は一見津沢の句から意味性を消したように見せて、実際は新しい意味をせっせと詰め込もうとしたのである。

 バルトは「表徴の帝国 包み」(ちくま学芸文庫)で日本の箱に注目した。中身は無意味に近いものだが、それに施される過剰な包装や、立派な作りの箱が贈り物に使われる意味を、典型的な記号の国と見たのである。「贈る」というメタメッセージが箱によって運ばれるのであって、箱の実際の中身はあまり問題にならない。記号とはそのようなもので、この箱を許容しているのは日本の文化なのである。

 問われるべきは、このような文化のコードの中で、あるいは桎梏の中で生まれた俳句という文芸において、どのような読みが可能かということである。この桎梏の苦しさにあがきつつ人は詩を作るのである。このことを踏まえずして詩の真の理解はないのである。

以上

※本文中の(注)は以下添付資料を参照

読みはどこまで自由か?添付資料.pdf