現代俳句コラム

現代俳句コラム

葉月葉の日これは雨の日阿部完市
 今年の九月は晴れた日がほとんどなく、毎日雨空の下で、天気予報に並ぶ傘マークをにらみ続けていた。そのためか俳句を読む時も無意識に雨の句に目が止まるようになっていた。
 阿部完市氏は雨が好きらしく、「栃木にいろいろ雨のたましいもいたり」や「すとんとすわりけり陸奥のくにの奥雨男」など、雨に関するいい句がたくさんある。掲句は雨の降る葉月の林の情景を詠んだ作品であろう。五七五から外れたリズムだが、まったく気にならずに、思わずわらべ歌のように口ずさんでしまう。一読して目を引くのは、葉月の隣に韻を踏んで置かれた「葉の日」という言葉だ。雨に濡れて光る緑の木の葉が印象的な夏の一日を「葉の日」と名づけたのではないかと想像するが、「葉月葉の日」という新鮮な言葉を冠することで、木の緑も雨も、日常とはまったく別の姿に見えてくるから不思議だ。
 私たちは身のまわりのものを全て理解したような顔をして生活しているが、その実何も本質を見ていないことに、こういう句を読むと気づかされる。雨も木の葉も、ほとんどの人間にとってはただの記号でしかない。雨や葉を見てその存在に衝撃を受けるのは赤ん坊の時だけだ。成長して「雨」「葉」という言葉を覚えるとともにそれらは知識として脳に整理されることで、驚くことはなくなる。いちいち雨や葉を見て赤ん坊の時とおなじような衝撃を受けていたら生活するのに具合が悪いからだ。しかしこの句の「葉月葉の日」のように不意に知識の壁に穴をあけるような新鮮な言葉に出会うと、記号化された知識としての雨や葉でない、初めて全身でその存在にふれた時の「雨」や「葉」がよみがえって来るのではないだろうか。阿部氏には、おそらく言葉とは世界そのものだという確信があって、俳句の言葉によって世界との原初的なつながりを回復したいという願望があったのかもしれない。だからその句の言葉はどれもどこか懐かしく響いてくるのだろう。
 

(句集『地動説』平成十六年角川書店刊)

 

評者: 守谷茂泰
平成28年10月16日